責任をとるということ

自分の身の上に起こることに偶然ということはない。あなたにはこれが信じられるだろうか?というより信じる気があるだろうか?

例えば、病気になってしまったとか、交通事故に合ってしまったとか、変な男(女)に引っかかってしまったとか、詐欺にあってしまったとか…。これらの出来事が偶然じゃないとしたら。多分、これを見て頭に来る人もいるだろう。私も時々は、猛烈に頭に来る。”私が何をしたというのか?何で私が、(又は私の子供が)こんな病気にならなければならないのか?””これはどう考えても相手が100%悪い!!””誰がどう見ても、あいつが私をだましたんじゃないか!”などと思ってしまう。当然である。

もっともである。悪いのは、相手である。起こった状況が私を苦しめるのだ。そうでなければ、何の為に法律があるのだ。判決がおり、どちらか一方に罰が下され被害者には慰謝料が支払われるのか?まさにこれが、法治国家のシステムであり正義なのだ。そうでなければ、私は何を信じればいいと言うのか?

 頭に来ている時は、この考えはある程度有効である。「ちくしょう!ふざけるな!死んじまえ〜!」と叫びながら、頭の中で私が正しい理由を考え得る限り考えるという事を飽く事もせず、何度も何度も繰り返す。やがて疲れて眠りにつく(笑い)のである。

白状すると、私もつい最近まで、このゲームを繰り返していた。それはなぜか?なんと見事にもここ数年、悪いことが立て続けに起こったからだ。子供の病気、多額の詐欺、信頼していた友人に貸した金を踏み倒されそうになる。TVは壊れる、車はエンジンが止まって、泣く泣く廃車…。夫の会社は倒れ掛かり、ボーナスなし、給料CUTの憂目に合うといった有様である。なんとドラマチックな日常だろう。私は別にドラマチックが好きなわけじゃないと思っていたけど、根の部分にはあるんだなと気ずかされた。

もちろん、私もこれらの事が起きた時は、頭がパニックになり、怒り狂い、眠れない夜が何ヶ月も続いた。相手を責め、運命を呪い、とりわけ自分自身を傷つけたのだ。一年、一年半と私の中の沸々とした怒りを相手に向かって吐き出したり、押さえ込んでイライラしたり、自分に向けてみたり、家族に向けてみたりとそれはもう大変だった。どこをどう突付いてみても、”かわいそうな私””なんて不幸な私…”なんでよりによってこんなに沢山の事が、ここ2〜3年で一度に起きてしまったのだろう?と思う日々の連続であった。

が、ある日、ハッ気ずいたのだ。ちょっと待てよ。起きてしまったじゃなくて、”起こしてしまった”のではないだろうか?偶然ではなくて、必然に!!」

こんな風に言うと、ある友人は、「そんなになんでも自分が引き起こしたみたいに思う必要ないよ。たまたま悪い人に当たってしまっただけだよ。」と言ってくれる。きっと慰めてくれているのだと思う。ありがたいことだけど、どうしてもそうは思えないのだ。少し前までの私なら、その言葉で十分慰められ、そして、相手に対する愚痴を際限なく言い続けたであろう。そして、怒りをそのまま奥に封じこめて、べったり怒りにしがみつき、ずっと被害者を演じたであろう。そして、それは一生続くものだったであろう。

でも、気がついたのだ。私はこんなにも怒りや憎しみに翻弄されてもいいのだろうか?私はそんなに弱い人間だろうか?答えは、NOである。私は、自分が十分強い人間だという事を知っている。もう止めよう、怒りにしがみ付くのは。私は、自分の心の中で起きている事に責任を取ることにした。

それには、まず、自分の中の怒りを解放することだと思った。毎日、自分の意識に注意をはらって、少しでも憂鬱な方に傾きかけると、すぐにベットに飛び込み枕に向かって叫ぶのである。そして、泣いて、枕をぐしょぐしょに濡らし、すっきりして元気になる。この繰り返しを何回も何十回もやり続けた。まず、必要だったのは、”私の中に怒りはある”それを認めて解放してやることだった。それが、責任のうちの50%を取ること。怒りに対して怒っちゃいけない、怒りは悪いものだと判断していると、ずっと怒りと共に生きていかなければいけなくなるのだ。

残りの50%は?なんでこれらの事を引き付けたのだろう?引き付けたという言葉を使うと、やはり、「引き付けるなんて事はない。」と強く反発する人もいるだろう。でも、その人達は、引き付けると認識することイコール自分を責めるというイメージを持っているのだと思う。でも、それは違う。自分が悪い悪いと、自分をいじめるというのとは違うのだ。むしろ、”私は、私のまわりに起きていることを自分の思考によって創り出している。”という考え方だ。そして、それは、この世に生きている人達みんなにあてはまる事なのだ。私にとっては、あなたは創造物であり共演者で、あなたにとって、私は創造物であり、共演者なのだ。そして、あなたがわたしに向かってやることなすことは、私が演出をして、その場面を創り出しているのだ。一人一人にそれだけ、絶大なパワーがあるのだ!

さて、なぜ、これらの事を引き付けたのかを、私は自分なりに考えてみた。子供の病気はなぜだろう?子供に期待しすぎてはいけない。子供は、そこに存在するだけで完璧だという事をもっと学ぶ必要があったのだろう。それから、常に注意をはらってやるのはいいが、親が子供のすべてをコントロールするのは、不可能だという事も学んだ。そして、心配は何の役にも立たないという事。子供の力をもっと信頼する事等をもっと深いところで、観る必要があったのだ。

その他の事は、すべてモノやお金を喪失することに関係あることばかりだが、これは私にとって大きな学びとなった。まず、自分には十分あるということを認めること。失うものなど本当は何もないということ。物質にしがみ付くのを止め流れに身をまかせ、出て行った分だけ必ず入ってくることを信じること。相手を責め、憎んでも、実は、相手には何の影影もない。相手を怒っているように思えるが、その怒りは全部自分のもとへ倍増して返ってくるだけ。だから、相手を憎むのをやめなければいけないという事も学んだ。

 ひとつ言っておくが、自分を欺いた行為を容認するということじゃない。相手は相手で、自分の蒔いた種は刈り取らねばならないだろう。しかし、それをするのは私の仕事じゃない。一人一人、責任は自分でとるのだ。そして、こう言ってあげるのだ。「私はあなたをゆるしてあげます。あなたも成長してくださいね。」と…。

ともかく、目を大きく開いてはっきり見る必要があったのは、自分の力をもっともっと信頼することだった。自分を支えているものは、金でも車でもTVでもなくて、自分の中にある本来のパワーだということ。今まで私は、このパワーを超強力にごまかしていた。そういう自分を直視するのは難しいけれど、ありのままの自分を取り戻す為に、平安を取り戻す為、時にはFUCK YOU!と言いながらも、この道を歩いていこうと思う。
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